vol.279 2023 autumn
ユニセフのスタッフが定期訪問する家庭の女の子。父親は数年前に亡くなり、母親は再婚して家を出て行った。残された5人の子どもたちは、祖父母に面倒を見てもらっている(インド)
© UNICEF/UN0378208/Panjwani

特集

心の健康のために

子どもたちのメンタルヘルス

今、世界では10億人近い人々が心に不調を抱えながら暮らしています。

とりわけ子どもや若者にとって、心の病気は、健康や教育、
そしてその先の人生や収入に大きな影響を与えます。

しかし、心の健康(メンタルヘルス)の問題はいまだ社会的偏見が根強く、
医療や福祉においても、体の健康に比べ、
まだまだ重要視されていない分野のひとつです。

豊かな国であっても、貧しい国であっても、
すべての子どもたちの可能性を最大限に引き出すために重要なメンタルヘルス。
その課題とユニセフの取り組みをご紹介します。

パンデミックの経験から

2019年末に最初の感染が報告されてほどなく、新型コロナウイルス感染症のパンデミックが世界を襲いました。緊急事態宣言やロックダウン、休校など、世界中の人々がかつてないほどの大きな変化を強いられ、私たちの日常は一変しました。子どもや若者たちも、家に閉じこもり、人とのつながりを断ち切られ、先行きが見えないなかで、不安や孤独感に苛まれました。

私たちは、この広い世界で起きていることが、心にも大きな影響を与えることを、パンデミックを通してまざまざと見せつけられました。家族との関係、友人とのつながり、学校や職場といった生活環境はもちろん、紛争、格差や貧困、パンデミックといったより大きな社会状況が、一人ひとりの心の世界に大きく影響することを実感しました。これは言い換えれば、体の健康と同様、心の健康も、たんに個人の問題とするのではなく、地域や企業、行政をふくむ社会全体で向き合い、取り組んでいくべき課題だという認識を深める経験でもあったはずです。

メンタルヘルス

メンタルヘルスを直訳すると、「心の健康」です。WHO(世界保健機関)は、「心が健康である状態」を、「自身の可能性を認識し、日常のストレスに対処でき、生産的かつ有益な仕事ができ、さらに自分が所属するコミュニティに貢献できる健康な状態」と定義しています。ユニセフがめざす世界像に置き換えるなら、たとえば次のようなことではないでしょうか。

──赤ちゃんが、生まれた直後から家族の愛情を受けて、日々の喜びや悲しみを共有しながら成長すること。思春期の子が、たわいのない話ができる友人を持ち、彼や彼女が落ち込んでいるときは支え、自分が落ち込んでいるときは頼ることができること。若者が人生に目的意識をもち、自信をもって挑戦していくこと。母親や父親が、経済的にも社会的にも大きな不安を抱えることなく、子どもの成長や健康を支えること。そして、何らかの理由で子どもや若者の心が、友人や家族だけでは支えられなくなったとき、社会が必要な支援を迅速に差し伸べること。

声を上げるためにデジタル技術を学ぶ女の子(タジキスタン)
© UNICEF/UN0433581/Fazylova

こう考えると、ユニセフが「すべての子どもの命と健康を守る」というとき、そこには「心の健康」もふくまれることがわかります。SDGsの目標3「すべての人に健康と福祉を」にも、心の健康への対策を進めることが掲げられています。

しかし世界では、10~19歳の若者の7人に1人以上が、心の病気の診断を受けていると推定されています。毎年4万6000人近い若者が自殺しており、これは約11分に1人の割合。自殺は、15〜19歳の若者の死因の第4位に入っています。

また、ユニセフが『世界子供白書2021』のためにおこなった分析によると、0~19歳のメンタルヘルスに起因する人的資本の損失は、年間3872億米ドルにのぼります。このうち、不安やうつなどの疾患による損失は3402億米ドル、自殺による損失は470億米ドルとなっています。

一方、多くの国で、保健・医療分野の政府予算のうち、メンタルヘルスに関する支出に割り当てられているのは、わずか2%にすぎません。世界の最貧国では、政府がメンタルヘルスの問題に費やす費用はひとりあたり1米ドルに満たないところもあります。

こうした世界の現状をみると、社会がメンタルヘルスの問題に対処するための十分な投資をしてこなかったあいだ、子どもや若者たちは、自分たちでその負担を背負ってきたといえるかもしれません。

ブランコで遊ぶ男の子。「遊び」は子どもの心を回復させます(インド)
© UNICEF/UN0662179/Soni

うつや不安、あるいは、精神的な疲労感など、心の健康が損なわれつつあるとき、子どもや若者たちはどのように感じるのでしょうか。ユニセフが米国のジョンズ・ホプキンス・ブルームバーグ大学の研究者と共同で実施した、13カ国の十代の若者たちとのグループディスカッションでは、エジプトの十代の女の子からこんな声が聴かれました。

「精神的に疲れているということ。それは、自分の人生を生きていないと感じ、なにもできないと感じること。望みをもっていたとしても、心が打ちのめされ、自分がそれを実現できるなんて、とても思えなくなること……」

もし心が健康でなければ、生きているように感じられず、夢をもつことすらできない──前途ある子どもや若者をこのような状況に取り残さぬよう、国や社会がしっかりメンタルヘルスに投資し支援に取り組んだとき、心の健康はどのように回復していくのか。ペルーの事例をお伝えします。

避難民の子どもが描いた絵(スーダン)
© UNICEF/UN0841480/Satti
「子どもにやさしい空間」で絵を描くスーダン避難民の女の子(エジプト)
© UNICEF/UN0837933/Mostafa

ある少年の危機

母親のロクサーヌさんは、14歳の息子アンドレさんを「活発でいつも冗談をいう、頭の良い子」だといいます。アンドレさんも、「自分には心の余裕があって、新しい環境にだって適応できる」と思っていました。しかし、パンデミックが始まる数カ月前、ロクサーヌさんは学校からショッキングな電話を受けました。

「アンドレさんが、教室で机の下にもぐりこみ、『もう生きていたくない』といって泣いています」

心の健康を損なった経験を語るアンドレさん
© UNICEF/UN0476518/Mandros

アンドレさんが専門的な治療を必要としていることは明らかでした。ただ、首都リマの北の郊外で叔母の家の小さな部屋を間借りして暮らしている母子にとって、精神科を備えた中核病院や民間クリニックは遠すぎて、費用もかかりすぎるものでした。途方に暮れていたロクサーヌさんが地域の保健センターを訪れると、公的医療保険が適用でき、自宅からバスで10分のところにある、カラバイヨという町のメンタルヘルスセンターを紹介してくれました。

そのセンターは、精神科医、臨床心理士、ソーシャルワーカー、薬剤師と専門家が横断的にそろい、日常生活のなかで心の健康づくりを推進する活動から中程度〜重度の精神疾患を対象にした専門的な治療まで幅広いメンタルヘルスケアを提供する、地域密着型の「心の総合病院」でした。

ここでアンドレさんは、両親の別居が原因のひとつと考えられる不安神経症とうつ病と診断されました。音楽や読書が好きで、社会の役に立つ、なにか影響力のあることをしたいと夢見る前向きな十代だったアンドレさんでしたが、両親の別居をきっかけに、自分でも気がつかないうちに心の健康を損なっていたのです。抗うつ剤を処方され、精神科医、心理士、ソーシャルワーカーのチームによる診察とカウンセリングを受けました。

「アンドレさんが自分が経験していることを受け入れ、心理的に対処していくことができるよう総合的な治療計画を立てました」と担当の心理士のシャンビラさん。「臨床心理士として、カウンセリングと助言を通じて心理療法をおこなう一方、ソーシャルワーカーも在籍するチームとして、彼の回復に積極的な役割を果たす母親のロクサーヌさんの相談にも乗り、総合的なケアを提供しています」

心の健康のための改革

このセンターは、ペルーの地域密着型精神医療モデルの一翼を担う施設です。母子保健や予防接種、健康づくりなどに地域で取り組むプライマリ・ヘルスケア(基礎的保健医療)施設として、地域住民の体の健康と心の健康を支えています。

アンドレさんの母ロクサーヌさん
© UNICEF/UN0476527/Mandros

もともとペルーには、メンタルヘルスケアの需要と供給に大きなギャップがありました。2013年、保健省は、国民の5人に1人が精神疾患を抱えていると推定しましたが、そのうち5人に1人しか必要なケアを受けられていませんでした。当時、ペルー国内のメンタルヘルスケアの提供は、首都リマにある3つの病院に集中していて、サービスがいきわたらない状況だったのです。

そこでペルー政府は、支援を拡大するため一連の改革に乗り出しました。国民健康保険制度の適用範囲にメンタルヘルスケアを追加し、メンタルヘルスケア事業の予算を増額。2019年には、新しい精神保健法を可決。こうした改革の結果、地域密着型のヘルスケアセンターは、2015年の22カ所から2021年には203カ所に増加し、これらのセンターを30の総合病院の専門チームと48の中核センターがサポートする体制も整えられました。

パンデミックによるロックダウンと休校の影響でペルーの子どもと若者の3分の1が心の健康に何らかの問題を抱えているとされた際は、ユニセフの支援でメンタルヘルスのホットラインを導入。2020年12月から2021年4月の5カ月間に、不安神経症やうつ病、家族問題に悩む821人に利用され、その48%が十代の若者でした。

元市営スタジアムを改装したメンタルヘルスセンターへ向かうアンドレさんと母
© UNICEF/UN0476531/Mandros

ロックダウン期間中はアンドレさんにとってもストレスでしたが、臨床心理士と定期的に話すことができ、また、ふだんは仕事で深夜に少し会えるだけだった母親と過ごす時間も増えました。はじめてセンターを訪れてから1年以上が経ち、服薬の必要もなくなったアンドレさんは前向きな変化を実感しています。

「センターに来る前はほんとうにひどかったのだと、今はよくわかります。自分は大丈夫だと嘘をついて生きるよりも、心が健康なほうがいいです。人生をあきらめてしまいたくはないですから─」

ユニセフの提言

子どもや若者は、生涯にわたるメンタルヘルスの強固な基盤を築くべき成長段階にありながら、アンドレさんのように、心の健康そのものを損ないかねないリスクや経験にしばしば直面します。そしてもしそのリスクをうまく乗り越えることができなかったとき、その代償は、社会全体にとって計り知れないものです。

ユニセフは、世界的な課題である子どもと若者のメンタルヘルスの課題を克服するため、①世界的なリーダーシップとパートナーシップを強化し、メンタルヘルスへの支援に投資すること(コミットメント)、②メンタルヘルスへの偏見をなくし、心の健康について世界中でもっとオープンに話し合える状況をつくりだしていくこと(コミュニケーション)、そして、ペルーの地域密着型メンタルヘルスケアセンターのように③実際の支援をおこなうこと(行動)の必要性を国際社会に訴えるとともに、各国政府や地域の取り組みを支援しています。